放射光(X線)で小さなものを観察する大きな2つの施設

変動電圧に強い酸化マンガン水電解触媒の開発
-揺らぎの大きい自然エネルギーを用いた水素製造に貢献-


2025年10月20日
理化学研究所


理化学研究所(理研)環境資源科学研究センター 生体機能触媒研究チームの中村 龍平 チームディレクター、李 愛龍 研究員(研究当時)らの国際共同研究グループは、水の電気分解[1]の電圧が変化する環境においても、長期的に安定して動作するマンガン酸化物触媒[2]を開発しました。本研究成果は、再生可能エネルギー由来の不安定な電力を活用した水素製造技術の開発に貢献すると期待されます。

太陽光や風力といった再生可能エネルギーは、環境負荷の少ない持続可能な電力源として注目されています。しかし、天候や時間帯により出力電圧が秒単位から時間単位で大きく変動するという課題があります。このような不安定なエネルギーを用いて水の電気分解を行うためには、変動電圧下でも安定して動作する電解触媒の開発が不可欠です。

国際共同研究グループはこの課題に対し、酸化マンガン[3]を電気分解の陽極(酸素発生触媒[4])として使うことを考えました。特に、マンガンの酸化還元反応[5]を巧みに利用することで、触媒自身が繰り返し再生される反応経路を導入し、「自己修復型」の触媒として機能させることに成功しました。その結果、電圧が1.68~3.00Vの範囲で繰り返し変動する過酷な条件下でも、2,000時間以上にわたって水の電気分解を続けられることを実証しました。

本研究は、反応経路設計に基づく「自己修復型」電解触媒という概念を提示し、変動する再生可能エネルギーから水素などの化学燃料を高効率で製造する次世代電解技術の実現に貢献すると期待されます。

本研究は、科学雑誌『Nature Sustainability』オンライン版(10月20日付:日本時間10月20日)に掲載されました。

論文情報
著者名:Ailong Li, Hideshi Ooka, Shuang Kong, Kiyohiro Adachi, Yuchen Zhang, Kazuna Fushimi, Satoru Hamamoto, Masaki Oura, Sun Hee Kim, Daisuke Hashizume, Ryuhei Nakamura
タイトル:"Oxygen evolution electrocatalysis resilient to voltage fluctuations"
雑誌名:Nature Sustainability, 10.1038/s41893-025-01665-y



自己修復経路を導入した水電解触媒


背景

現在、環境負荷の低い水素製造技術として電気分解が注目されています。太陽電池や風力発電など、再生可能エネルギーによる電力を使って電気分解を行えば、化石燃料を使わずに水素をつくることが可能となります。

しかし、再生可能エネルギーの電力は常に安定しているわけではなく、天候などの影響で出力が変動します。例えば、太陽が陰ったり、風がやんだりすると、電圧供給が下がります。逆に、太陽が強く照り過ぎたり、風が強く吹き過ぎたりすると電圧供給が過剰となります。特に、電圧が大き過ぎると、従来の多くの触媒は分解してしまい、性能が低下してしまうという課題がありました。

このような背景の下、国際共同研究グループは、触媒の酸化分解と同時に自己修復が起こる「自己修復型」の反応経路を設計するというアプローチにより、変動条件下でも長寿命で安定的に機能するマンガン酸化物触媒の開発に取り組みました。


研究手法と成果

今回、国際共同研究グループはマンガンの酸化還元特性を最大限に活用する(図1)ことで、変動電圧下でも高い耐久性を示すマンガン酸化物触媒を開発することに成功しました。水の電気分解では、水素と酸素を別々の電極でつくるため、2種類の触媒が必要になります。特に、中村チームディレクター、李研究員らのこれまでの研究から、酸化マンガンは酸素をつくる触媒として優れていることが分かっていました注1、2)。しかし、酸化マンガンでも2V以上の電圧では溶解してしまい(図1のオレンジの反応)、貴金属触媒である酸化イリジウムと比べて、材料寿命が短いことが課題となっていました。

溶出による触媒劣化を抑制するため、国際共同研究グループは一度溶けたマンガンイオン(図1のオレンジ)が触媒上に再生する反応(図1の緑の反応)を導入しました。具体的には、リン酸を添加することで、Mn7+が電極上のMn2+と反応して、Mn3+を生成する反応を導入しました。再生したMn3+は触媒反応の中間体として、再び電気分解に寄与することができます。これによって、触媒が一時的に溶けても再生するメカニズムの導入に成功しました。



図1 酸化マンガンの反応機構


(A)電圧変動がない場合の反応機構。(B)過剰な電圧を加えた場合の反応機構。(C)自己修復経路を導入した場合の反応機構。矢印は、青が水の電気分解、オレンジは触媒溶出、緑は触媒修復に相当する反応経路を表す。


その効果を端的に示すのが図2の試験です。国際共同研究グループは再生可能エネルギー由来の変動電圧を模して、マンガン酸化物触媒に3.00Vと1.68Vの電圧を交互に加えました。酸化マンガンは1.68Vでは溶けませんが、3Vでは溶けます。このため、3時間おきに8分間、3Vの電圧をかける操作を繰り返すと、触媒は少しずつ溶けてしまい、200回ほどで触媒機能が90%以上失われます。しかし、リン酸がある条件だと、一度溶けたマンガンイオンも電極上に再生します。このため、3Vの電圧を680回以上かけても初期特性の90%以上を保つことが可能となりました。



図2 修復経路の有無による触媒特性の変化


マンガンの溶出量(A:リン酸なし、B:リン酸あり、縦軸はマンガンイオン濃度)と電解電流(C:リン酸なし、D:リン酸あり)の経時変化。A、Bではオレンジの背景の時間に3V、それ以外の時間には1.68Vの電圧を加えた。リン酸なしだと一度溶けたマンガンイオンは溶液中に蓄積する(A)が、リン酸共存下ではマンガン酸化物触媒が自己修復し、溶液中のマンガンイオンが減少する(B)。これにより、リン酸なしの場合は200回目のパルス(変動)の時点で触媒活性は90%以上失われる(C)のに対し、リン酸がある場合は680回目のパルスでも初期活性の90%を維持することが可能となった(D)。


 今回の研究では、マンガンだけでなく、コバルトや鉄、ニッケルなど、他の3d遷移金属由来の酸化物でも、変動電圧に対する耐久性を測定しました。しかし、酸化マンガン以外の触媒は、リン酸を入れても50回程度の変動で完全に活性がなくなってしまいました。このことから、電圧が変動する環境下において、マンガンの特異な触媒機能が明らかになりました。

注1)2019年3月19日プレスリリース「水を電気分解し続けるマンガン触媒の動作条件を発見
注2)2024年1月17日プレスリリース「非貴金属触媒によるPEM型水電解


今後の期待
本研究成果は、反応経路設計に基づき「自己修復型」の電解触媒を開発することで、再生可能エネルギー由来の変動電力を活用した高効率な水素製造など次世代電解技術の実現に貢献すると期待されます。

また、今回の研究は、自然界の生存戦略を理解する上でも興味深い成果です。酸素発生反応は光合成の中心的な反応で、この反応を担う酵素ではマンガンが活性部位[6]に使われています。一方で同じ反応を担当する酵素でも活性部位の金属が異なることがよくあります。このため、光合成でマンガンだけが選ばれた理由は古くから研究されてきました。変動する自然環境における触媒の分解が避けられない場合、今回の研究で唯一触媒の再生能力を示したマンガンが、最有力候補として残った可能性が考えられます。

この成果は、国際連合が定めた17の目標「持続可能な開発目標(SDGs)[7]」のうち、「7.エネルギーをみんなに、そしてクリーンに」に貢献するものです。


補足説明


1. 水の電気分解
電気エネルギーを用いて水を水素と酸素に分解する反応(2H2O→2H2+O2)のこと。再生可能エネルギー由来の電力と水から水素をつくることが可能となる上、副生成物として酸素しか発生しないため、環境負荷の低い水素製造技術として近年盛んに研究されている。


2. 触媒
反応を促進する一方で、自分自身は消費されない物質のこと。繰り返し使うことができるため、化学反応の環境負荷を下げる方法として注目されている。


3. 酸化マンガン
本研究における酸化マンガンとは、二酸化マンガン(MnO2)のこと。他にもMnOやMn2O3など、異なる組成のものがあり、触媒特性も異なる。


4. 酸素発生触媒
水を水素と酸素に分解する電気分解反応のうち、酸素を発生する反応(2H2O→O2+4H++4e-)を担当する触媒のこと。関連して、水素を発生する触媒は水素発生触媒という。電気分解を水素製造技術として活用するには、特に酸素発生触媒の電圧効率や材料寿命の改善が必要とされている。


5. 酸化還元反応
化学物質の酸化状態が変化する反応の総称。今回の研究において、Mn2+がMn3+やMn4+、Mn7+に変化する反応はすべて酸化還元反応である。


6. 活性部位
酵素の構造のうち、実際に化学反応が起きる場所のこと。光合成酵素では、マンガン原子がちょうど4個使われている。これに対し、鉄(1原子)や鉄(2原子)、鉄とニッケル(1原子ずつ)など、活性部位に複数の構造が知られている酵素反応もある。


7. 持続可能な開発目標(SDGs)
2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2016年から2030年までの国際目標。持続可能な世界を実現するための17の目標、169のターゲットから構成され、発展途上国のみならず、先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)なものであり、日本としても積極的に取り組んでいる(外務省ホームページから一部改変して転載)。


国際共同研究グループ
理化学研究所
環境資源科学研究センター 生体機能触媒研究チーム
チームディレクター 中村 龍平(ナカムラ・リュウヘイ)
(東京科学大学 地球生命研究所 教授、同大学 物質理工学院 応用化学系 教授)
研究員(研究当時)李 愛龍(リ・アイロン)
研究員 大岡 英史(オオオカ・ヒデシ)
研究員(研究当時)孔 爽(コウ・ソウ)
人材派遣職員 伏見 和奈(フシミ・カズナ)
国際プログラム・アソシエイト 張 雨晨(チャン・ユチェン)
(中国科学技術大学 博士課程学生)
創発物性科学研究センター 物質評価支援チーム
チームディレクター 橋爪 大輔(ハシヅメ・ダイスケ)
基礎科学特別研究員 足立 精宏(アダチ・キヨヒロ)
放射光科学研究センター 軟X線分光利用システム開発チーム
チームリーダー 大浦 正樹(オオウラ・マサキ)
特別研究員 濵本 諭(ハマモト・サトル)

韓国基礎科学支援研究院
主任研究員 スンヒ・キム(Sun Hee Kim)
(韓国中央大学校 教授)


研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成制度基盤研究(A)「触媒反応ネットワークの制御による持続的酸素発生触媒の創生(研究代表者:中村龍平、22H00339)」、科学技術振興機構(JST)革新的GX技術創出事業GteX「グリーン水素製造用革新的水電解システムの開発(研究代表者:高鍋和広、JPMJGX23H2)」、文部科学省データ創出・活用型マテリアル研究開発プロジェクト「再生可能エネルギー最大導入に向けた電気化学材料研究拠点(DX-GEM、研究代表者:杉山正和、JPMXP1122712807)」の助成を受けて行われました。

また、シンクロトロン放射光実験は大型放射光施設「SPring-8」のビームラインBL14B2(XAFS)、BL36XU(XAFS)、BL17SU(XPS)およびBL44B2(PXRD)で評価しました(高輝度光科学研究センター:2021B1856、2025A1386、理研:20250032)。放射光測定に際し、大渕博宣、金子拓真、宇留賀朋哉、加藤健一、繁田和也の各氏のご支援を受けました。また、電顕測定、EPR測定においてMohamed Arfaoui氏、Daiha Shin氏のご支援を受けました。


発表者・機関窓口
理化学研究所
環境資源科学研究センター 生体機能触媒研究チーム
チームディレクター 中村 龍平(ナカムラ・リュウヘイ)
研究員(研究当時)李 愛龍(リ・アイロン)

発表者

理化学研究所 広報部 報道担当
 Tel: 050-3495-0247
 Email: ex-pressml.riken.jp

(SPring-8 / SACLAに関すること)
公益財団法人高輝度光科学研究センター
 利用推進部 普及情報課
TEL:0791-58-2785 FAX:0791-58-2786
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発表者・機関窓口
理化学研究所
環境資源科学研究センター 生体機能触媒研究チーム
チームディレクター 中村 龍平(ナカムラ・リュウヘイ)
研究員(研究当時)李 愛龍(リ・アイロン)

発表者

理化学研究所 広報部 報道担当
 Tel: 050-3495-0247
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(SPring-8 / SACLAに関すること)
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複数元素置換で鉄酸ビスマスに新しい機能を付与
―コンデンサと磁石の性質に加え、室温での負熱膨張を発現―


2025年11月28日
東京科学大学
神奈川県立産業技術総合研究所
名古屋工業大学
高輝度光科学研究センター
京都大学
科学技術振興機構(JST)


【ポイント】

○ ペロブスカイト型酸化物鉄酸ビスマスのビスマス・鉄の両方を異種元素で置換。
○ 強誘電性と強磁性が共存するため、低消費電力の次世代磁気メモリへの応用に期待。
○ 温めると縮む、負熱膨張も発現。


東京科学大学(Science Tokyo) 物質理工学院 材料系の畑山華野大学院生、三宅潤大学院生、総合研究院の東正樹教授、西久保匠特定助教(兼 神奈川県立産業技術総合研究所 常勤研究員)、重松圭助教らの研究グループは、ペロブスカイト型(用語1)酸化物ビスマスフェライト(BiFeO3)のビスマスをカルシウムで、鉄をルテニウムやイリジウムで置換すること、スピンの並び方が変化して強磁性(用語2)強誘電性(用語3)が共存することを明らかにしました。さらに、強誘電相から体積の小さい常誘電相への転移温度が劇的に低下し、室温近傍の温度で負熱膨張(用語4)が生じることも見いだしました。
今回開発した物質は強磁性と強誘電性が相関することから、新しい原理に基づく、低消費電力かつ高速アクセスの次世代磁気メモリ開発につながると期待されます。また、熱膨張が引き起こす位置ずれや異種材料接合界面の剥離といった問題の解決につながる負熱膨張材料としての利用も期待されます。
本研究には、東京科学大学(Science Tokyo)物質理工学院 材料系の小野大樹大学院生(研究当時)、塩野裕介大学院生、若崎翔吾大学院生、総合研究院のLee Koomok(イ・クモク)日本学術振興会外国人特別研究員、Hena Das(ヘナ・ダス)特任准教授(兼 神奈川県立産業技術総合研究所 常勤研究員)、山本隆文特定教授(兼 京都大学大学院理学研究科教授)、名古屋工業大学の尾上智子派遣職員、物理工学類の壬生攻教授、高輝度光科学研究センターの河口彰吾主幹研究員が参加しました。
本研究成果は、11月28日付(現地時間)の「Journal of the American Chemical Society」に掲載されました。

論文情報
雑誌名:Journal of the American Chemical Society
題名:Achieving Canted-spin Weak Ferromagnetism and Negative Thermal Expansion in A- and B-site Substituted Bismuth Ferrite
著者:Kano Hatayama, Jun Miyake, Daiki Ono, Yusuke Shiono, Takumi Nishikubo, Koomok Lee, Shogo Wakazaki, Hena Das, Kei Shigematsu, Tomoko Onoue, Ko Mibu, Shogo Kawaguchi, Takafumi Yamamoto and Masaki Azuma
DOI:10.1021/jacs.5c12255


●背景

AIやクラウドの普及による情報処理量の爆発的な増大に伴い、情報機器の電力消費増加が問題になる中で、低消費電力・不揮発性の次世代メモリデバイスへの要求が高まっています。その材料として注目されているのが、磁性(強磁性あるいは反強磁性)と強誘電性を併せ持つマルチフェロイック物質(用語5)です。磁化と強誘電性の相関が十分に強いマルチフェロイック物質を用い、電場によって磁化(N極-S極の向き)方向を反転することができれば、不揮発性・高安定性という現在の磁気メモリの特徴を生かしつつ、低消費電力で駆動する簡易な素子構造を持つ次世代磁気メモリを実現できると期待されます。これまでに東教授らのグループは、反強磁性(用語6)強誘電体の鉄酸ビスマス(BiFeO3)の鉄を一部コバルト(Co)で置換すると、隣り合うスピン(原子レベルのN極-S極に対応)の向きが反平行からずれることで、電気分極に直交した弱強磁性(用語7)の自発磁化を持つこと、電場によって分極を反転した際に磁化を反転できることを報告し、住友化学次世代環境デバイス協働研究拠点において、メモリデバイスの開発を進めていました。しかしながら、保磁力(用語8)が低く、磁気情報の安定性に課題がありました。
一方で、光通信や半導体製造など、精密な位置決めや部材の寸法管理が要求される局面では、わずかな熱膨張が大きな問題になります。そこで、温度が上昇すると収縮するという、“負の熱膨張”を持つ物質によって、構造材の熱膨張を補償(キャンセル)することが試みられています。 同研究グループは負熱膨張材料BiNi1-xFexO3(鉄をニッケル(Ni)で置換したBiFeO3、BNFOと表記、xは0と0.5の間の任意の数)を開発、日本材料技研株式会社からBNFOの商品名で市販していますが、合成に人造ダイヤモンドと同様の高圧が必要で、価格が高いことが問題でした。


●研究成果

今回の研究では、強誘電性と強磁性を併せ持つとともに、負の熱膨張性も有する材料を開発しました。具体的には、高圧合成の手法を用いてBiFeO3のAサイトのビスマス(Bi)をカルシウム(Ca)で、Bサイトの鉄をルテニウム(Ru)やイリジウム(Ir)で等量置換すると、弱強磁性の出現を阻んでいたスピンサイクロイド変調構造(用語9)が消失して自発磁化が出現することを、磁化測定とメスバウアー分光(用語10)で明らかにしました(図1)。鉄をコバルトで置換した場合に比べて保磁力は4倍程度に上昇しており、次世代磁気メモリに応用した際にデータの安定性を改善できると期待できます。
また、大型放射光施設SPring-8(用語11)(本研究で使用したBL名:BL02B2、BL13XU)の放射光X線回折実験(用語12)で結晶構造変化を調べたところ、体積の小さい常誘電相への転移温度がBiFeO3の1103 K(約830℃、Kは絶対温度の単位であるケルビン)から劇的に低下しており、Bi0.85Ca0.15Fe0.85Ir0.15O3では室温近傍で1.77%もの体積負熱膨張を示すことが分かりました。負熱膨張は、卑金属であるジルコニウム(Zr)を用いたBi0.85Ca0.15Fe0.85Zr0.15O3でも観測されました(図2)。今回見いだした物質の母物質であるBiFeO3は常圧下で合成可能なことから、今後の合成法の改善によって、安価で高性能な負熱膨張材料となることが期待されます。



図1:鉄酸ビスマス(左)と、A-Bサイト元素置換鉄酸ビスマス(右)の磁気構造の模式図。鉄酸ビスマスでは右に進むにつれてスピンの方向が一回転するサイクロイド変調があるため、スピンの磁化は打ち消し合い自発磁化は現れない。一方、元素置換鉄酸ビスマスではスピンが傾斜しているため、磁化は打ち消し合わずに電気分極に直交した自発磁化が現れる。



図2:A-Bサイト元素置換鉄酸ビスマスBi1-xCaxFe1-xMxO3 (M = Ru, Ir, Zr)の低温相、高温相、平均の格子体積(青・赤・緑のプロット)、高温相の分率(黒のプロット)。緑色のプロットで示された平均格子体積の変化から、温めると体積が縮む負熱膨張が起きていることが分かる。

●社会的インパクト

強磁性と強誘電性が共存するマルチフェロイック物質は、次世代メモリデバイス材料として期待されています。また、負熱膨張材料は、半導体などの精密加工現場での位置決めのズレや、異種材料接合界面での剥離といった熱膨張問題の解決につながるため世界的に研究が活発化しており、日本が強みを持つ材料です。
ペロブスカイト酸化物はこれらの他にも超伝導性、巨大磁気抵抗効果、イオン伝導など、多彩な機能を持つため、盛んに研究されています。Aサイト、Bサイトの両方に元素置換を行う今回の物質設計指針は、他の機能性材料の創出にも用いることができると期待されます。


●今後の展開

鉄酸ビスマスへのA-Bサイト両置換による保磁力増大という今回の発見はデータ記録の安定性につながるため、今後は半導体製造工程で使用される微細加工技術を駆使した素子作成に取り組み、次世代の低消費電力不揮発性磁気メモリ素子の実現を目指します。また、水熱合成法などの安価な合成法を確立することで、負熱膨張材料としての応用も目指します。


●付記

本研究の一部は、JST 戦略的創造研究推進事業 CREST「非晶質前駆体を用いた高機能性ペロブスカイト関連化合物の開発(研究代表者:東正樹 東京科学大学教授、課題番号:JPMJCR22O1)」、地方独立行政法人 神奈川県立産業技術総合研究所 実用化実証事業「次世代半導体用エコマテリアルグループ(東正樹グループリーダー)」、日本学術振興会 科学研究費助成事業(課題番号:JP23KJ0919、JP24K17509、JP24H00374)、国際・産学連携インヴァースイノベーション材料創出プロジェクトなどの支援のもと、住友化学次世代環境デバイス協働研究拠点において実施されました。


【研究者プロフィール】

東 正樹(アズマ マサキ) Masaki Azuma
東京科学大学 総合研究院
自律システム材料学研究センター/フロンティア材料研究所 教授
研究分野:固体化学


【用語説明】


(1)ペロブスカイト型
一般式ABO3で表される元素組成を持つ、金属酸化物の代表的な結晶構造。


(2)強磁性
磁場を印加されていない状態でも磁化を持ち、かつ外部磁場の向きに応じて磁化の向きを可逆的に反転できる性質のこと。


(3)強誘電性
電界(電圧を、その電圧が印加されている試料の厚みで割ったもの)を印加されていない状態でも電気分極(物質中で陽イオンと陰イオンの重心がずれていることから生じる、電荷の偏り)を持ち、かつ外部電界の向きに応じて電気分極の向きを可逆的に反転できる性質のことを強誘電性と呼ぶ。


(4)負熱膨張
通常の物質は温めると体積や長さが増大する、正の熱膨張を示す。しかし、一部の物質は温めることで可逆的に収縮する。こうした性質を負の熱膨張と呼び、ゼロ熱膨張材料を開発する上で重要である。


(5)マルチフェロイック物質
一般的には、複数の強的秩序を有する物質のことを言う。狭義では、強磁性と強誘電性の二つの強的秩序を有する物質を指す。


(6)反強磁性
隣り合う電子のスピンが互いに逆方向を向いて整列した状態を反強磁性状態と呼ぶ。


(7)弱強磁性
反強磁性体において、スピンが完全には反並行にならず、わずかに傾いた状態を指す。磁化は完全には打ち消されないため、自発磁化が現れる。


(8)保磁力
磁化された磁性体を磁化されていない状態に戻すために必要な反対向きの外部磁場の強さ。


(9)スピンサイクロイド変調構造
ある方向にスピンが少しずつ回転していくようなスピンの配列。そのスピンベクトルの先端をつなぐとサイクロイド曲線になる。


(10)メスバウアー分光
物質中の原子核によるガンマ線の吸収スペクトルを通じて、原子核を取り囲む電子の状態を探る実験手法。固体中の鉄の局所的な価数状態や磁気的状態の評価にきわめて有効である。


(11)大型放射光施設SPring-8
理化学研究所が所有する兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す大型放射光施設で、利用者支援等は高輝度光科学研究センター(JASRI)が行っている。SPring-8(スプリングエイト)の名前はSuper Photon ring-8 GeVに由来する。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、磁場によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のこと。SPring-8では、放射光を用いてナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。


(12)放射光X線回折実験
物質の構造を調べる方法の一つ。放射光X線を試料に照射し、回折強度を調べることで結晶構造(原子の並び方や原子間の距離)を決定する。


本件に関するお問い合わせ先
(研究に関すること)
東京科学大学 総合研究院
自律システム材料学研究センター/フロンティア材料研究所 教授
東 正樹

神奈川県立産業技術総合研究所 次世代半導体用エコマテリアルグループ 常勤研究員
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名古屋工業大学 物理工学類 教授
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高輝度光科学研究センター 回折・散乱推進室 主幹研究員
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京都大学 大学院理学研究科 教授
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(報道取材申し込み先)
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叩く・擦る程度の刺激で破砕し発光する希土類錯体のソフトクリスタルの開発とそのエネルギー変換機構の解明に成功


2025年11月12日
青山学院大学


長谷川美貴教授(理工学部 化学・生命科学科)が、東京大学生産技術研究所 石井和之教授、関西学院大学 加藤昌子教授(現 四天王寺大学)、コンフレックス株式会社 中山尚史博士、横浜国立大学 伊藤傑准教授、同 中野健教授、高輝度光科学研究センター河口彰吾主幹研究員、横浜市立大学 服部伸吾助教らとの共同研究の成果を、Chemistry - A European Journalに発表しました(2025年10月30日)。本研究は、希土類錯体のソフトクリスタル*1現象のひとつとして位置づけられます。従来、希土類錯体はブラックライト(紫外線)を赤色や緑色の可視領域の発光に変換されるフォトルミネッセンス(PL)の研究が中心に行われてきました。これに対して、機械的刺激による発光(トリボルミネッセンス;TL)を示す系の研究は、その刺激の定量化や、TL測定装置が市販されたものがないなど、物質の開拓とともにその評価法も確立されていない未踏の分野のひとつです。今回、分子層がある方向に揃って積み重なるラメラ構造をとるキラルな希土類錯体を用いることで、このTLのメカニズムを明らかにしました。

論文情報
雑誌名:Chemistry - A European Journal
題名:Lamellar-Cleavage-Induced Triboluminescence in Discrete Chiral Complexes with Lanthanides
著者:Reo Ohno, Akira Saso, Yukina Yamamoto, Daisuke Hayauchi, Hitomi Ohmagari, Daisuke Saito, Shingo Hattori, Chika Nishimoto, Naofumi Nakayama, Ken Nakano, Suguru Ito, Shogo Kawaguchi, Masako Kato, Kazuyuki Ishii, Miki Hasegawa*
DOI:10.1002/chem.202502824


【研究概要】

トリボルミネッセンス(TL)は、擦る、叩くなどの機械的な刺激により発光する現象です。今から約400年前に哲学者のフランシス・ベーコンが、暗闇で氷砂糖(スクロース)を砕くと青く発光するミステリアスな現象について、自身の哲学書に文字のみで説明し、これを1888年にウィーデマンが “Triboluminescenz (英:Triboluminescence)”と名付けたのが由来です。しかし、電気を使って光らせる物質や、ブラックライトをあてて光らせる(Photoluminescence, PL)物質は発見から比較的すぐ実用化されているのに対し、TLは発見から約400年経った今でも実用化が困難とされています。その理由に、原子や分子レベルでの配列の設計や現象が生じる仕組みが明らかにされていないことが挙げられます。TLに関わる研究の論文数は、分子性材料の合成技術の発展と、測定装置の高精度化により近年増加傾向にあります。その中には、高分子のように擦って静電気が発生しやすい系や、分子の配列と結晶の破砕に注目した系もあります。
今回の研究は、キラル*2希土類錯体*3を用いており、結晶化させると分子の裏と表が揃った2次元の層ができ、更にこれが積み重なったラメラ構造(図1)を取ります。この結晶を用い、破砕により希土類が発光するメカニズムを明らかにしました。



図1 キラルな分子の構造と分子配列

結晶破砕は、高感度の分光器を連結させた、自由落下実験を応用したドロップタワーシステム(DTS)を独自に開発することで、ステンレス球の設置高さの調整により機械刺激を定量的に、かつ破砕時のスペクトルも精緻に評価しました。
▶DTSによるEu錯体とTb錯体の動画はこちらでご覧になれます。
リンク先:https://youtu.be/3kDwUpFXvKs

これまでの研究で、希土類錯体のTLの原理は、希土類の直接励起に由来するもの、有機分子の励起を起点とするアンテナ効果に由来するもの、あるいはサンプル周辺の気体(例えば窒素等)の励起を起点とするもの、等の仮説が立てられていました。また、分子集合においても中心対称性を有するものかどうかということも議論の対象でした。今回用いたキラルな錯体分子Chiral LnLval(Ln=希土類イオン)は、非常に珍しい空間群P65(あるいはP61)で配列し、ラメラ構造を形成します。この時、希土類の層をはさむようにして片方の面には有機分子の芳香環がシート状に並び、他方には硝酸イオンが並び、この方向を維持したまま次の錯体の層が異方性を伴って堆積しています。すなわち、中心対称性の破れた系に属します。比較のために、LnLvalのラセミ結晶およびカウンタ―アニオンを硝酸イオンから塩化物イオンに替えた結晶を用いた場合の同様の実験を行いましたが、いずれもTLを示しませんでした。
Chiral LnLvalのTLをDTSで測定したところ、希土類イオン固有の発光スペクトルが観測できました(図2)。例えば、Euは赤色の、Tbは緑色の波長領域にシャープに帯が現れます。このTL現象の仕組みを知るため、更に4つのアプローチで実験を行いました。


(1) TL強度の刺激の強さに対する依存性(図2):Chiral EuLval のDTSのステンレス球の落下スタートの高さを上げて、破砕に用いるエネルギーを上げた際のTLの強度をプロットすると、この系の場合、高さ80 cmからTL強度に変化が見られなくなります。このことは、TLを発現するための機械的エネルギーには限界があることを示しています。



図2 TLスペクトル測定のためのドロップタワーシステムとChiral EuLvalとChiral TbLvalの TLスペクトル

(2) TL発現の環境特異性:この系のTLが希土類イオンの直接励起によるものか、アンテナ効果を経たものであるのかを調査するため、DTSそのものをアルゴンあるいは窒素の雰囲気下に閉じ込めてTL測定をした結果、環境に依存しないことがわかりました。また、TbとEuを混合させたChiral Tb/EuLvalを用いたTLスペクトルの相対強度をPLスペクトルの場合と比較し、TbからEuへの金属間エネルギー移動がTLで生じないことがわかりました。すなわち、希土類イオンの直接励起によるTLではないことがわかりました。


(3) 結晶粒のサイズとTL発現の相関(図3):合成直後の錯体の結晶はTLを示すのに対し、結晶を乳鉢でよく砕くとTLが発現しなくなります。大型放射光実験施設SPring-8*⁴(BL02B2) の粉末X線回折(PXRD)でこれらを測定したところ、砕いた後のサンプルのXRDピークの半値幅は大きくなりましたが、回折ピークの位置は変わりませんでした。また、再結晶するとXRDピークの半値幅は合成直後の場合と同様にシャープになり、TLを示すようになりました。電子顕微鏡からもサイズの効果が観測されました。すなわち、この破砕の過程では、結晶構造は大きく変化せず(結晶相転移はせず)、結晶粒のサイズが小さくなり、TL発現にはある程度の結晶粒のサイズが必要であることがわかりました。



図3 結晶破砕による粒径サイズあるいは結晶相転移の可能性に関する構造とTL発現に関する考察

(4) 光アンテナとなる有機分子のTL発現の確認:従来のTLを示す希土類錯体は、希土類そのものの発光に着目した系が多くみられていました。Gdを結合させた錯体は、その有機化合物の発光特性を知るために有用です。Chiral GdLvalは有機分子に局在化したTLを示す系であることがわかりました。すなわち、(2)の考察と併せるとEuなどの希土類イオンに由来するTLは、機械刺激により配位子が励起され、分子内エネルギー移動を経由することがわかりました。


総括すると、本研究では、アミノ酸を有するキラルな希土類錯体のラメラ構造の結晶を用いて機械的エネルギーを発光に変換する系は、配位子の励起状態(特に励起三重項状態)を経由したアンテナ効果によるものであることを証明しました(図4)。このような系の実用化はまだ実現しておらず、原理解明は未来に向けた新たな発光材料を指向するきっかけになります。



図4 結晶破砕による希土類のTL発現を伴うエネルギー緩和機構

研究を進めるにあたり、富山大学野崎浩一教授、岩村宗高講師、九州大学先導物質化学研究所五島健太博士に御指導・御助力賜りました。本研究は、文部科学省科研費、公益財団法人山田科学振興財団、物質・デバイス領域共同研究拠点、文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業の支援により遂行しました。大型放射光実験施設SPring-8で採択された課題により放射光PXRD測定を行い、浜松ホトニクス株式会社、帝人株式会社にDTSのセットアップで御助力頂きました。この場をお借りして御礼申し上げます。


【今後の展開等コメント】

TLを示す素材がエネルギー変換材料として興味深い研究対象であるにもかかわらず、実用化されていない背景には原子や分子レベルでの配列の設計や現象が生じる仕組みが明らかにされていないことが挙げられます。実用化すると、夜道で足跡が光るようなタイルが実現するかもしれません。そのためには、次の科学的な課題がありますが、長谷川研究室ではこの未来材料としての可能性を今後も探求していきます。


【関連情報リンク】

◆Chemistry - A European Journal
https://chemistry-europe.onlinelibrary.wiley.com/doi/epdf/10.1002/chem.202502824

◆長谷川美貴教授研究者情報
https://researchmap.jp/read0161615

◆石井和之教授研究者情報
https://researchmap.jp/ISHII_Kazuyuki

◆加藤昌子教授研究者情報
https://researchmap.jp/read0015356

◆中山尚史博士研究者情報
https://researchmap.jp/nnkym

◆伊藤傑准教授研究者情報
https://researchmap.jp/7000006369

◆河口彰吾主幹研究員研究者情報
https://researchmap.jp/kshogo

◆服部伸吾助教研究者情報
https://researchmap.jp/s-hattori

◆長谷川研究室ウェブサイト
http://www.chem.aoyama.ac.jp/Chem/ChemHP/inorg2/

◆理工学部ウェブサイト
https://www.agnes.aoyama.ac.jp/


【用語解説】


※1. ソフトクリスタル
ソフトクリスタルとは、高秩序で柔軟な応答系である分子結晶の総称です。ソフトクリスタルの形成条件や相転移現象の解明が、文科省科研費新学術領域「ソフトクリスタル―高秩序で柔軟な応答系の学理と光機能」で飛躍的に推進され、新たな物質群として発展しています。


※2. キラル
キラルは右手と左手の関係の様に、同じ骨格を持っているのに重ならない関係にあるもの。例えば、分子の場合、レモンの香り成分とオレンジの香り成分はキラルな化合物で、右手と左手の分子構造を持っているため、機能(この場合は香り)が異なります。


※3. 希土類錯体
希土類は、スカンジウム、イットリウムおよび原子番号57から71のランタノイドの総称です。希土類錯体は、これらに有機分子を結合させた化合物のことを言います。ここでは、金属自身が発光を示すことが知られているサマリウム(Sm)、ユウロピウム(Eu)、テルビウム(Tb)およびジスプロシウム(Dy)と、比較のためにガドリニウム(Gd)を用いた錯体を使っています。


※4. 大型放射光実験施設SPring-8
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設。高輝度光科学研究センターが利用者支援などを行っています。SPring-8(スプリングエイト)の名前はSuper Photon ring-8 GeV(ギガ電子ボルト)に由来します。SPring-8では、この放射光を用いて、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われています。


本件に関するお問い合わせ先
【問い合わせ先】
◆青山学院大学 リエゾンセンター
相模原キャンパス
Tel:042-759-6056
Mail:agu-liaisonaoyamagakuin.jp
https://www.aoyama.ac.jp/research/research-center/liaisoncenter/

(SPring-8 / SACLAに関すること)
公益財団法人高輝度光科学研究センター
 利用推進部 普及情報課
TEL:0791-58-2785 FAX:0791-58-2786
E-mail:このメールアドレスはスパムボットから保護されています。閲覧するにはJavaScriptを有効にする必要があります。

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ブラックホールに落ち込むプラズマの構造が明らかに!
― NASAの気球に世界最大の日本製の望遠鏡を搭載―


2025年11月14日
広島大学
大阪大学
愛媛大学


【本研究成果のポイント】

1. ブラックホールの極限環境を、X線(硬X線注1)観測では新しい「偏光注2」という手法から解き明かしました。


2. 気球搭載型望遠鏡 XL-Calibur(エックスエル-カリバー)注3により、地球からおよそ7000光年離れたブラックホール「はくちょう座 X-1 (Cygnus X-1)注4からの15-60 keV(1.5-6万電子ボルト)の硬X線を観測しました。
(YouTube動画「NASA XL-CALIBUR Launch」で検察 NASA XL-CALIBUR Launch


3. 日本製の世界最大のX線集光ミラー注5などにより、従来よりも20倍も高い感度で観測データを取得することに成功しました。


4. これまでブラックホール周辺にコロナ(高温のプラズマ領域)が存在することが知られていましたが、その形状を決定できる観測結果がありませんでした。今回のXL-Caliburの観測結果は、直径125 kmのブラックホールの中心から2000 km以内で明るく輝くコロナが、ブラックホールから数十億kmにわたって噴出する巨大なプラズマジェットと垂直方向に整列している(伴星から奪った物質が落ち込む円盤に沿って平べったい構造をしている)ことを示します。


5. 本研究成果により、ブラックホール近傍のコロナプラズマの構造を制限することができ、ブラックホール近傍の物理過程の理解に重要な手がかりを提供しました。


広島大学大学院先進理工系科学研究科の高橋弘充准教授、大阪大学大学院理学研究科の松本浩典教授、JAXA宇宙科学研究所の前田良知助教、愛媛大学大学院理工学研究科の粟木久光教授らを含む気球搭載型望遠鏡 XL-Calibur国際研究チームは、ブラックホールに物質が落ち込む前にどのように渦を巻き、莫大なエネルギーを放出するのか、その環境をより深く理解するために、硬X線放射の「偏光」観測を実施しました。
X線偏光観測ミッションXL-Caliburは、2024年7月にスウェーデンからカナダへ向けた約6日間の長距離気球フライト中に、ブラックホールX線連星である「はくちょう座 X-1」を観測しました。XL-Caliburの観測により、「はくちょう座 X-1」から放射される15-60 keVのX線について、偏光情報(偏光度と偏光角)をこれまでよりも約20倍も高い感度で観測することに成功し、最も精密な制約を得ることができました。XL-Caliburの結果を、直径125 kmのブラックホールの中心から2000 km以内で明るく輝くプラズマ領域(コロナ)が、ブラックホールから数十億kmにわたって噴出する巨大なプラズマジェットと垂直方向に整列していることを示しています。この結果から、コロナは、伴星から奪った物質が渦状に落ち込む円盤に沿って、平べったい構造をしていることが明らかになりました。
今後は、改良した気球実験や人工衛星によるX線の偏光・測光・分光の観測結果、理論研究から、様々な質量のブラックホール(太陽質量の数倍から100億倍もの超巨大サイズ)において、ブラックホールに吸い込まれつつある物質が重力の影響をどのように受けているかが明らかにされ、中心に存在するブラックホールの特性(自転速度)やブラックホールが及ぼす相対論的な効果(時空のゆがみ)などの理解が進むと期待されます。
本ミッションでは、日本の研究者が装置の中核となるX線集光ミラーの製作・較正を担当しました。X線集光ミラーの反射率と結像性能を較正の際には、大型放射光施設SPring-8(BL20B2)の20-70 keVの硬X線を利用しました。こうして日本の技術力が国際観測の鍵を担った形となっています。

論文情報
雑誌名:The Astrophysical Journal
題名:XL-Calibur Polarimetry of Cyg X-1 Further Constrains the Origin of its Hard-state X-ray Emission
著者:Hisamitsu Awaki, Matthew G. Baring, Richard Bose, Jacob Casey, Sohee Chun, Adrika Dasgupta, Pavel Galchenko, Ephraim Gau*, Kazuho Goya, Tomohiro Hakamata, Takayuki Hayashi, Scott Heatwole, Kun Hu*, Daiki Ishi, Manabu Ishida, Fabian Kislat, Mózsi Kiss*, Kassi Klepper, Henric Krawczynski, Haruki Kuramoto, Lindsey Lisalda, Yoshitomo Maeda, Hironori Matsumoto, Shravan Vengalil Menon, Aiko Miyamoto, Asca Miyamoto, Kaito Murakami, Takashi Okajima, Mark Pearce, Brian Rauch, Nicole Rodriguez Cavero, Kentaro Shirahama, Sean Spooner*, Hiromitsu Takahashi, Keisuke Tamura, Yuusuke Uchida, Kasun Wimalasena, Masato Yokota, Marina Yoshimoto
*責任著者
所属:
  a 広島大学 大学院先進理工系科学研究科(高橋弘充、呉屋和保、横田雅人)
  b 大阪大学 大学院理学研究科(松本浩典、袴田知宏、倉本春希、宮本愛子、村上海都、白濱健太郎)
  c JAXA宇宙科学研究所(石田学、前田良知、内田悠介、伊師大貴、宮本明日香)
  d 愛媛大学 大学院理工学研究科(粟木久光、善本真梨那)
DOI:10.3847/1538-4357/ae0f1d


【背景】

ブラックホールに降着し(降り積もり)吸い込まれる物質は、強い重力によって非常に高温に熱せられ(約1000万度)、X線で明るく輝いています。そのため、X線観測によって、ブラックホール近傍での降着物質の物理状態を明らかにすることができれば、中心に存在するブラックホール自身の物理量や、強い重力場における一般・特殊相対論的な効果も観測することができると期待されています。しかし、これまでの時間変動(測光)やエネルギー(分光)の観測だけでは、降着物質がどのような状態にあるのか長年にわたって議論が平行線をたどっていました(遠方にあるため画像では「点」にしか見えず、構造は調べられていません)。
偏光観測は、画像、時間変動、エネルギーの測定とは異なり、高エネルギー粒子が放射する光子の偏光(電場の振動方向が偏っている)情報から、物質から直接届いたのか、どこかで反射・散乱されてきたのかという幾何構造を推定することができます。電波や可視光では一般的な手法ですが、X線やガンマ線の帯域では技術的な困難から、これまでに硬X線の帯域で偏光情報を取得できたのは、我々が2016年に実施したPoGO+気球実験だけでした(ただし上限値で制限がかけられたのみ)。


【研究成果の内容】

2024年7月、日本チームを含む国際共同研究チームは、気球望遠鏡 XL-Calibur を用いた新たな観測により、ブラックホール周辺の極限的な環境を明らかにしました。このミッションは、米国ワシントン大学が主導し、日本からは広島大学、大阪大学、JAXA宇宙科学研究所、愛媛大学などの研究者が世界最大のX線集光ミラーを提供して中心的な役割を果たしています。
観測対象は、地球から約7,000光年の距離にあるはくちょう座X-1(Cyg X-1)。1964年に発見され、天の川銀河で最初に「ブラックホール」であると広く受け入れられたX線天体です。ブラックホールの質量は太陽の約21倍。ブラックホールの周囲には、落ち込む物質と噴き出す物質が以下の3つの構成要素を形成していると考えられています:
 1. 降着円盤:近傍の恒星から奪った物質が円盤状に渦を巻いて落ち込む。
 2. コロナプラズマ:降着円盤からの光にエネルギーを与えて、より高エネルギーにする高温プラズマ。
 3. プラズマジェット(アウトフロー):ブラックホールの自転に伴う時空のねじれと強磁場により、一部の物質が極方向に高速で噴き出す流れ。
XL-Caliburの観測は、特にコロナプラズマ(2番目)の形状と位置、起源に強い制約を与えています。以前のPoGO+の観測では、硬X線の偏光が微弱(偏光度が8.6%以下)であることしか分かっていませんでしたが、今回のXL-Caliburでは感度が約20倍も向上したことにより、偏光度がおよそ5.0%であることが測定することができました。この結果、直径125 kmのブラックホールの中心から2000 km以内で明るく輝くコロナが、ブラックホールから数十億kmにわたって噴出する巨大なプラズマジェットと垂直方向に整列していることが分かりました。
従来の我々のPoGO+実験による観測結果では、コロナがブラックホール近傍100kmに局在するようなコンパクトな形状ではなく、広がって存在していることだけが分かっていました。今回のXL-Calibur実験による観測結果から、広がったコロナの形状は円盤に沿った平べったい構造であることを明らかにすることができました。


【今後の展開】

この情報は、NASAの偏光衛星IXPE(2–8 keVの低いエネルギー)や、JAXAのXRISMなどの分光衛星、さらに最新のコンピュータシミュレーションと組み合わせることで、今後数年でブラックホールおよびその近傍におけるより精密な物理モデルが構築されると期待されています。XL-Caliburチームでは、次は南極からのフライトにより、他のブラックホールや強磁場の中性子星の偏光観測を目指しています。
国際協力で実現した気球実験XL-Calibur国際共同研究チームには、ワシントン大学、ニューハンプシャー大学、大阪大学、広島大学、JAXA宇宙科学研究所(ISAS)、スウェーデン王立工科大学(KTH)、NASAゴダード宇宙飛行センターおよびワロップス飛行施設など、計13機関以上が参加しています。ミッション代表はワシントン大学の Henric Krawczynski教授。


【参考資料】


図1:2024年7月9日にスウェーデンから放球されたXL-Calibur(エックスエル-カリバー)気球(YouTube動画「NASA XL-CALIBUR Launch」 NASA XL-CALIBUR Launch



図2:翌日(7月15日)に着陸場所を上空から確認した写真(NASA)。無事に気球ゴンドラの回収が済んでおり、次回の南極フライトに向けて準備を進めています。


図3:XL-Caliburによる観測結果。ブラックホール近傍の高温コロナによって放射される硬X線の偏光方向が、電波で観測されている巨大ジェット(白色)と向きが揃っている(平行)ことが分かりました。IXPE衛星による軟X線の観測結果がピンク。


図4:今回判明したコロナの想像図(断面図)。コロナは円盤に沿って平べったい形状をしている(ジェットとは垂直方向に広がっている)ことを明らかにすることができました。



【その他】

本研究は、文部科学省科学研究費補助金(課題番号:19H01908、19H05609、20H00175、20H00178、21K13946、22H01277、23H00117、23H00128)による支援を受けたほか、JAXA小規模計画、SPring-8の支援も受けています。


【用語解説】


注1)硬X線
X線とガンマ線の間のエネルギーをもつ電磁波。今回観測した硬X線のエネルギー帯は15–60 keV(可視光の約1.5万~6万倍のエネルギー)。


注2)偏光
通常の光は色んな方向に電場が振動しています。人工的にはサングラス、自然界では水面での反射などにより、ある特定の方向のみに振動している状況を偏光した光と呼びます。
「偏光度」は偏光している光の割合、「偏光角」はその向きを表します。これらの測定により、ブラックホール近傍で超高温プラズマがどのような形状で暴力的に運動しているのかを知ることができます。また、同様の観測を中性子星や星雲のような他のX線天体に行うことで、宇宙で最も強力な磁場構造の形状を明らかにすることもできのです。


注3)X線を北極圏の上空40km(地球の大気0.3%しかない上空)から観測
天体からのX線は、地球大気で吸収されてしまうため、宇宙(に近い上空)から観測をする必要があります。
研究チームは2024年7月、NASAの直径100mに膨らむ科学気球によって、XL-Caliburを上空40kmの成層圏まで上昇させ、大気の影響をほぼ受けない高度から天体観測を行いました。フライト時間は、スウェーデンからカナダにかけて5.5日間(7月9日から14日)。
人工衛星として打ち上げることができれば、より長い観測時間を得ることができますが、より高い信頼性・確実性が求められるため、世界初を目指す偏光観測のような野心的な検出器を載せるのは難しく、また開発期間も長くなってしまいます。我々は偏光観測に特化した気球実験として開発したことで、複数回のフライトを重ねることで検出器の性能を向上させ、最先端技術の利用しつつ、総重量2トンもの大型の検出器で観測することができました。これの結果が、低コストでありながら、他の人工衛星のミッションに先駆けて信頼性の高い硬X線の偏光観測へと実を結びました。



左上:打ち上げ直前のXL-Calibur気球。右上:打ち上げ直後の気球。下:打ち上げ場のスウェーデンから着陸地カナダまでの5.5日間のフライトの軌跡。(写真やデータはNASAより)


注4)「はくちょう座 X-1」(Cygnus X-1)
1964年に発見され、銀河系で初めて「本物のブラックホール」として広く認められた天体です。このブラックホールは伴星(超巨星)と密接に公転する連星系を形成しているため、ブラックホールX線連星と呼ばれます。もし我々が肉眼でCyg X-1を見ようとすれば、その見かけの大きさは月の幅の2千万分の1しかありません。したがって、直接像を撮れないほど小さな天体の形状を推定するには、従来の測光・分光観測に加え、今回新しく実現した偏光観測が非常に有効なのです。


左:可視光(Digitized Sky Survey)で観測した「はくちょう座X-1」。伴星の超巨星が青白く見える。右:「はくちょう座X-1」の想像図。https://chandra.harvard.edu/photo/2011/cygx1/
左側の中心の暗い部分がブラックホール。右側の青白い星が伴星(超巨星)。赤い円盤が降着円盤。上下に伸びる構造がプラズマジェット。今回の研究対象のコロナプラズマはブラックホールのごく近傍に存在。


注5)X線集光ミラー(日本製で世界最大)
X線を集光するためには、金属表面での全反射や結晶間隔を利用したブラッグ反射が利用されます。(眼鏡のレンズは透過してしまうため使えない)
今回利用したミラーは、213枚のアルミニウムシェルにそれぞれ10〜140層の白金–炭素の二層膜をコーティングしたものです。硬X線は、炭素を透過して、白金と白金の間隔に応じたエネルギーがブラッグ反射して効率良く集光されます。


本件に関するお問い合わせ先
<研究に関すること>
広島大学 大学院先進理工系科学研究科
准教授 高橋 弘充(たかはし ひろみつ)

<広報に関すること>
広島大学 広報室
TEL:082-424-3749
E-mail:kohooffice.hiroshima-u.ac.jp

大阪大学 理学研究科庶務係
TEL: 06-6850-5280
FAX 06-6850-5288
E-mail:ri-syomuoffice.osaka-u.ac.jp

愛媛大学 総務部広報課広報チーム
TEL:089-927-9022
E-mail:kohostu.ehime-u.ac.jp

(SPring-8 / SACLAに関すること)
公益財団法人高輝度光科学研究センター
 利用推進部 普及情報課
TEL:0791-58-2785 FAX:0791-58-2786
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ポータブル装置による世界最強110テスラ磁場発生とX線実験に成功


2025年10月29日
国立大学法人電気通信大学
国立研究開発法人科学技術振興機構
国立研究開発法人理化学研究所
国立大学法人東京大学
国立大学法人東北大学
公立大学法人兵庫県立大学
国立大学法人山形大学
国立大学法人静岡大学
公益財団法人高輝度光科学研究センター


【ポイント】

*独自開発のポータブル装置「PINK-02」により、地磁気の約200万倍にあたる110テスラの超強磁場発生に成功。
*磁場中心にX線自由電子レーザーを照射し、X線実験の世界最強110テスラ磁場を記録。従来は77テスラ。
*110テスラX線回折実験により、磁石である固体酸素が1%にも及ぶ巨大かつ異方的な磁歪(じわい)を示すことを明らかにした。
*同手法は、今後、100テスラを超える極限環境で現れる新しい結晶構造や電子状態、機能性の探索に活用される。


電気通信大学大学院情報理工学研究科基盤理工学専攻の池田暁彦准教授と理化学研究所放射光科学研究センターの久保田雄也研究員らを中心とした共同研究グループは、110テスラという極限強磁場下でX線自由電子レーザー実験に成功しました。本研究では、固体酸素が異方的に1%もの巨大な磁歪を示すことを観測し、その成果が国際的な物理学の学術誌 Physical Review Letters に掲載され、注目論文(Editors’ Suggestion)に選ばれました。

論文情報
雑誌名:Physical Review Letters
題名:X-ray free-electron laser observation of giant and anisotropic magnetostriction in β-O2 at 110 Tesla
著者:A. Ikeda(*), Y. Kubota(*), Y. Ishii, X. Zhou, S. Peng, H. Hayashi, Y. H. Matsuda, K. Noda, T. Tanaka, K. Shimbori, K. Seki, H. Kobayashi, D. Bhoi, M. Gen, K. Gautam, M. Akaki, S. Kawachi, S. Kasamatsu, T. Nomura, Y. Inubushi, M. Yabashi (*) Equal contribution
DOI:10.1103/r7br-qnrn


【背景】

近年、日本で1000テスラ(※1)に至る超強磁場が利用可能となり、このような強磁場が引き起こす新現象の探索が始まっています。期待される新現象の一例として、磁場によって物質の結晶構造が不安定化した結果、これまでにない新しい結晶構造が出現することが挙げられています。
このような期待を実証するには、強い磁場中で物質にX線を照射する必要があります。しかしこれは困難でした。というのも、100テスラを超える磁場を得るには、破壊型パルス磁場発生法(※2)が必須なためです。破壊型パルス磁場発生装置は、施設級の大型装置であること、持続時間が短い(100万分の1秒程度)パルス発生であること、シングルショットで繰り返せないこと、そしてコイルの爆発が避けられないといった多くの問題がありました。このため、100テスラ以上の超強磁場とX線を組み合わせた実験を行うことは従来困難と考えられてきました。
2011年に、この問題に解決をもたらす出来事が起こりました。世界で2番目のX線自由電子レーザー(※3)(XFEL)施設としてSACLA(※4)が日本に建設されたのです。SACLAでは非常に短いパルス幅(100兆分の1秒)で、かつ世界最強レベルの強度を持ったパルスX線が利用できます。このX線を用いれば、1発でX線実験データが得られるため、一瞬で1回しか起こらないような現象を研究することができます。しかし、SACLAも700メートル以上の大型装置であることから、施設級の大型装置である破壊型パルス磁場発生装置と組み合わせて利用することは依然として困難でした。


【手法および成果】

電気通信大学の池田暁彦准教授らの研究グループは、理化学研究所放射光科学研究センターの久保田雄也研究員らと共同研究グループを立ち上げ、今回、世界に先駆けてポータブル110テスラ発生装置「PINK-02」(※5)の開発に成功しました。PINK-02は、1100キログラムと自動車程度の重量に収まっており、可搬型です。
研究グループはその可搬性を活かしてPINK-02をSACLAのX線照射位置に設置し、110テスラ強磁場下でのX線実験を実施(※6)しました(図1)。実験対象には固体酸素(※7)を選びました。固体酸素は磁場を有しており、磁場に応答を示します。また固体酸素は結晶格子が柔らかいという特徴を持ちます。このため、強磁場下で新しい構造が現れる有力な候補物質とされてきました。
研究グループは、110テスラの破壊型パルス磁場発生とシングルショットX線実験を両立することに成功し、世界で初めて110テスラ超強磁場におけるX線回折データの取得に成功しました(図2)。実験の結果、固体酸素が110テスラ強磁場の作用を受け、その結晶構造が異方的な大きな歪み(磁歪)を示すことを観測しました。観測された異方的な磁歪は1%に達しました。これはスピン(※8)間の相互作用が結晶の一方向には強く、別の方向には弱いという、原子スケールで異方的な磁気相互作用が存在することを示唆しています。この成果により初めて原子レベルで、磁性体においてスピンと結晶構造の異方性が強く結びついていることを実証することができました。さらに山形大の笠松准教授らの理論計算と照らし合わせることで、この解釈が支持されることがわかりました。



図1 ポータブル110テスラ発生装置PINK-02の概要とXFEL施設SACLAでの破壊型パルス磁場実験の様子
(a) PINK-02とXFELによる強磁場X線実験の模式図
(b) その拡大図
(c) PINK-02の回路図
(d) 一巻きコイル(磁場発生前)
(e) SACLAビームラインにおける110テスラ磁場発生の瞬間
(f) 一巻きコイル(磁場発生後)
(g) X線自由電子レーザーの照射タイミング
(h) PINK-02による110テスラパルス磁場波形
(i) PINK-02のパルス電流波形



図2 110テスラにおける固体酸素のX線回折実験データ、および、判明した110テスラにおける固体酸素結晶の変形の様子
(a) 固体酸素の粉末X線回折像(ゼロ磁場中)
(b) 固体酸素の粉末X線回折像(110テスラ磁場印加の瞬間)
(c) 固体酸素の粉末X線回折プロファイル(全体)
(d) 固体酸素の粉末X線回折プロファイル(部分1)
(e) 固体酸素の粉末X線回折プロファイル(部分2)
(f) 固体酸素の粉末X線回折プロファイル(部分3)
(g) 固体酸素(β相)の結晶構造の模式図と磁場による異方的な変形の様子

【今後の期待】

今回確立した研究プラットフォームを活用し、磁性体、金属非磁性体など、さまざまな結晶に対して、極限磁場下での新しい結晶構造の出現を実証していく計画です。固体酸素については、今回の110テスラを超える120テスラ付近でさらなる全く新しい結晶構造(θ相)が現れると予想されており、その構造を明らかにすることが次の目標となります。
また、X線はその発見以来、物質の構造、電子状態、磁性、ダイナミクスなど多方面の研究に用いられてきました。今後は100テスラを超える極限領域で、これら全ての研究を展開できることを目指しており、これらの研究により強い磁場が引き起こす新現象や新物質の発見につながることが期待されます。


・今回の成果を得た際のポイント、ブレイクスルー

2009年にアメリカ・スタンフォード大学で登場したXFELですが、日本では世界2番目となるSACLAが2011年から稼働しています。アメリカとヨーロッパのXFEL施設の全長がそれぞれ約2キロメートルと約4キロメートルであるのに比べて、SACLAは700メートルと小型です。それでも、SACLAは大型施設であり、強磁場と組み合わせるためには「パルス磁場装置かパルスX線レーザー装置のいずれかをポータブル化する」ことが不可欠でした。
室内世界最強1200テスラの発生が日本の東京大学物性研究所で報告されました。池田准教授が同研究所在職中に破壊型パルス磁場の開発を経験する中で、100テスラ超強磁場では、電子や原子のミクロな現象を直接観測する手段が決定的に不足していると痛感したことが、今回の研究のモチベーションとなりました。
池田准教授は電気通信大学に拠点を移し、ポータブル超強磁場発生装置の開発に注力しました。2020年に開発を始めた初号機「PINK-01」では、2022年に77テスラの発生に成功。その後継機として理化学研究所と共同開発を続けた2号機の「PINK-02」で、今回、世界で初めて110テスラのポータブル発生を実現しました。


・国内外の状況との比較

パルス強磁場と量子ビームを組み合わせる研究は日本が発祥です。現在は世界中で取り組まれており、特に近年はアメリカとヨーロッパが先行してきました。2015年にはアメリカ・スタンフォード大学のXFEL施設LCLSにおいて40テスラでの実験が報告され、続いて2017年に共用開始されたヨーロッパのEuropean XFELでは、現在60テスラ級の装置の開発が完了しつつあります。日本でもSACLAで強磁場研究が進められ、2022年には77テスラでの実験が報告されていました。
今回、日本が世界に先駆けて110テスラでのX線実験を実現したことにより、磁場強度においては日本が大きくリードしました。本成果は、世界中の研究者を日本に引き寄せる大きな契機となり、今後の学術交流や共同研究の拡大につながることが期待されます。


発表者

池田 暁彦 (電気通信大学大学院情報理工学研究科 基盤理工学専攻 准教授)
(共同責任著者)
久保田 雄也 (理化学研究所 放射光科学研究センター 研究員)(共同責任著者)
石井 裕人 (東京大学物性研究所 助教)
周 旭光 (東京大学物性研究所 ISSPリサーチフェロー)
彭 詩悦 (東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程3年(研究当時))
林 浩章 (東京大学物性研究所 特任助教)
松田 康弘 (東京大学物性研究所 教授)
野田 孝祐 (電気通信大学大学院情報理工学研究科基盤理工学専攻 博士後期課程1年)
田中 智也 (電気通信大学情報理工学域Ⅲ類 2023年卒業)
新堀 琴美 (電気通信大学情報理工学域Ⅲ類 2025年卒業)
関 健汰 (電気通信大学大学院情報理工学研究科基盤理工学専攻 博士前期課程2年)
小林 秀彰 (電気通信大学大学院情報理工学研究科基盤理工学専攻 博士前期課程1年)
Dilip Bhoi (電気通信大学 大学院情報理工学研究科基盤理工学専攻
特任准教授(研究当時))
(現 オークリッジ国立研究所 パーマネント研究員)
厳 正輝 (東京大学物性研究所 助教)
Kamini Gautam (理化学研究所 創発物性科学研究センター 研究員(研究当時))
赤木 暢 (東北大学金属材料研究所 助教)
河智 史朗 (兵庫県立大学理学研究科 助教)
笠松 秀輔 (山形大学理学部 准教授)
野村 肇宏 (静岡大学理学部 講師)
犬伏 雄一 (高輝度光科学研究センター 主幹研究員)
矢橋 牧名 (理化学研究所 放射光科学研究センター グループディレクター)


(外部資金情報)

科学技術振興機構(JST)創発的研究支援事業 JPMJFR222W
SACLA/SPring-8基盤開発プログラム(2021-2024年度)
日本学術振興会(JSPS)科研費 学術変革領域(A) JP23H04859,JP23H04861, JP23H04862
日本学術振興会(JSPS)科研費 基盤研究(B) JP23K25818
文科省卓越研究員事業 JP-MXS0320210021


【用語解説】


※1. テスラ
磁場の単位であり、1テスラは10000ガウスに対応します。地磁気の強さは46マイクロテスラ(0.46ガウス))程度です。


※2. 破壊型パルス磁場発生法
パルス磁場とは強磁場を発生するために、コイルに大電流を流す方法です。大電流を一瞬だけコイルに流すことでパルスマグネットが発熱し融解することを回避しています。この方法で10~100テスラの強磁場が得られます。さらに100テスラを超える強い磁場を発生すると、コイル自身が磁場の反発力に負けて爆発します。そこでコイルを破壊するに任せ、毎回コイルを爆発させながら磁場発生を行う手法を破壊型パルス磁場発生法といいます。一巻きコイルに100万アンペアほどの電流を流して超100テスラ磁場を発生する破壊型パルス磁場発生法を一巻きコイル法といいます。今回ポータブル化したのは、一巻きコイル法です。1200テスラの室内世界最強磁場の発生に利用された手法は、電磁濃縮法といって磁束を力で束ねる破壊型パルス磁場発生法です。


※3. X線自由電子レーザー
近年利用可能となったX線のパルスレーザーです。従来の管球X線や放射光は複数の波長のX線が混ざって発生された光源(可視光域では白色ランプに相当する)であるのに対して、X線自由電子レーザーはX線のレーザーであり、高輝度、高空間コヒーレンス、超短パルス性という際立った特徴をもちます。


※4. SACLA
理化学研究所と高輝度光科学研究センターが共同で建設した日本で初めての XFEL 施設。2011年3月に完成し、SPring-8 Angstrom Compact free-electron LAser の頭文字を取ってSACLAと命名されました。2011年6月に最初のX線レーザーを発振、2012年3月から共用運転が開始され、利用実験が始まっています。


※5. ポータブル110テスラ発生装置「PINK-02」
ポータブル110テスラ発生装置「PINK-02」:PINKはPortable INtense Kyokugenjibaの略です。


※6. 110テスラ強磁場下でのX線実験を実施
SACLAビームラインでの110テスラX線実験の様子はYouTubeにて公開されています
(リンク:https://youtu.be/J4MT__Raz_k?si=6XfNuYUGTS2_O6ZX


※7. 固体酸素
酸素ガスが低温で凝縮し固化した状態。凝縮力の要因であるファンデルワールス力と磁気秩序のエネルギースケールが同程度で、拮抗しています。このため低温で三つの秩序相が出現します。最低温度で現れるα相では磁石の向きが互い違いになった秩序を持ちます。この磁気秩序を安定にするため分子軸は平行になっています。ここに120テスラ超強磁場をかけると、磁石の向きが無理矢理同じ方向にそろうことが10年前に日本で報告されました。磁石の向きがそろってしまうと、元の分子軸がそろっている状態は不安定になります。このため、120テスラで現れる酸素のθ相では、結晶構造が完全に新しいものに置き換わると予想されています。本実験の真の目的はこの検証でした。しかし、今回は120テスラには10テスラ足りず、検証は未達成のままです。


※8. スピン
ミクロな磁石の性質。ここでは特に電子が持つ電子スピンのことを指しています。酸素分子では電子スピンが相殺せずに残るため、分子一つで磁石の性質を有しています。


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